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わが国では、中高年人口が増すにつれて、彼らの健康維持や老化予防が焦眉の急のようにいわれ始めた。
治療医学以前に、おくればせながら、予防医学の重要性が国家的な次元で強調されだしたのである。
中高年登山が流行している理由も、こうした背景があっての話らしい。
日本中の中高年が健康を気にかけており、朝の公園で体操やジョギングをするかたわら、山へも繰り出すことになったのであろう。
六〇歳はまだ青年、という人さえいる。
今時、老人というのは八〇歳以上をいうらしい。
私は過去一年間、日本の三千メートル級の山々とヒマラヤ、カラコルムの五千メートル前後の場所での登山やトレッキングに中高年の人たちを誘い、低酸素状態における運動効果を調べた。
研究成果は別に発表するとして、ここでは日本の登山者一般の歩き方に対する助言をしたいと思う。
私か一緒に登った人たちの大半は、速く歩きすぎるために、不必要に余分な苦痛を肉体に与えながら登山する傾向があった。
そういう人たちは、自分が所属する山岳会でも先頭をゆくリーダーが飛ばしに飛ばすから、付いてゆくのがやっとで、苦しむために山を登っているようなものだとこぼしていた。
それにもかかわらずその人たちが山へ登る理由は、いくらかなりとも本能で知っているからだと思う。
おそらく苦痛とともに、ある快感を、 いつだったか、『栄光と狂気』という、日本人がハリウッドでつくったアメリカ映画を試写会で観た。
一流のスポーツマンは、肉体の苦痛が極限に達するところまで運動をしても、それにふさわしい快感が得られるが、そのときの感じは、筋肉感覚と感情がひとつになった、いわゆる心身一如の達成である。
一定以上の体力かおる者は、たおれるまで運動しても、一〇分か一五分も休めばもとに回復する。
体力の劣る者は、たおれる前に、苦しさのために運動をつづけられなくなる。
体力測定の現場に立ちあってみると、そのあたりの事情がよく分かる。
苦痛は、体力に応じてより多くの快感をもたらすために、苦痛と快感の区別ができにくくなるものなのだ。
努力の効用も、これではっきりする。
苦痛を伴う努力なくして、本当の快感はない。
右の法則は、山へ登るときの苦しみと楽しみを適切に調整するのに役立つ。
登山者は、自分の体力に応じて、快感の誘発に最も役立つあたりに苦痛の量を調節すればよいことになる。
苦痛のみを求めるのでなく、苦しみと同等の快感を得られるような自分の歩行速度を発見する必要がある。
おおむね、ゆっくり登れば、苦痛は減り快感が増す。
十分に深い腹式(丹田)呼吸をしながら、狭い歩幅で、短い休みをとりつつ適切な速度を維持して登りつづけると、一歩一歩が気分のよい快感登山につながる。
登る速度を自分の体力に最適なところへもってくるためには、単独行がいちばんよい。
単独でなくてはならぬということはないが、同行者の数は少ないに越したことはない。
せいぜい三人、いくら多くても六人までであろう。
それ以上の人数による集団登山では、なかなか快感を味わうことはできない。
自分のペースを発見しにくいからである。
いったい「気分がよい」とはどういうことなのか。
気分よく、登山をするためには、気分の内容を知らなくてはならない。
気分のよい状態の時間は速く過ぎ去るが、思い出すとその時間は長く感じられる。
それに反して、空しい(気分のよくない)ときは長く感じられるが、思い出としてのその時間は短い。
あるいは、幸福のときは、またたく間に過ぎ去るが、思い出としての幸福は長く感じられる。
不幸のときはその逆である。
気分のよい楽しい登山は長き良き思い出となる、ということなのだ。
登山行為の一歩一歩が、苦痛であるか快感であるかの差は、その登山を思い出したときに決まるといってもよい。
思い出の質によって、その登山の善し悪しが分かるというわけ。
そのはずである。
苦痛の多い登山では、苦痛という自己意識のみが肥大して、周囲の出来事への理解や観察がおろそかになり、体験の内容が貧弱で自己満足的になりやすいからである。
世の中には競馬馬のような登山者もいて、一緒に山へ登れば、必ず競争意識をむき出してスピードをあげる。
登山には「速く登って速く下ってくるのが安全」というH則はあるものの、速く登ること自体が登山の目的ではない。
時間記録だけを求め始めると登山家の精神は堕落する。
自分のペースを発見し、快楽登山へもってゆくことが、あくまでも大切。
とはいえ、人はいろんな動機で山へ登るものだから、一律に論断することはできない。
山へ登る人のなかには、より多くの苦痛をのぞむタイプ(苦痛派)もいて、こういう登山家は、ヒマラヤへ行くごとに少しずつ凍傷で指を失ってゆく傾向がある。
そのタイプの登山家には、どちらかというと快感よりも苦痛を愛する傾向が強い。
肉体の訓練に異常な執念を燃やし、何度も凍傷にかかって山から帰る人物がいた。
彼の黒いたので、驚いた記憶がある。
彼にとっては、切断の痛みがどの苦痛でもなかったようである。
あるいは、こうもいえるのではないか。
彼は普通人以上に肉体の苦痛を愛したから、凍傷にかかりやすかったのだと。
ダウラギリに登ったあとで指を凍傷にやられたあるアメリカ人を、私が手術した。
術後の傷も治って退院の運びとなった彼を、空港まで送った。
別れ際に彼は、空港の本屋で英文の三島由紀夫伝を見つけてそれを買い込んだ。
彼は三島の作品を愛読していると説明してから、自分は肉体上の苦痛を愛しており、苦痛の極限まで体験することが好きだからヒマラヤへ登るのだと付け加えた。
三島由紀夫の視点から評価する登山家もいるのかと、目からウロコが落ちる思いをした記憶がある。
私なりに自分の登山歴を振り返ってみると、若い時期の私は、やはり苦痛登山の信奉者で、山へ登るかたわらニーチェを愛読したものだ。
ニーチェといえば精神的苦痛の代弁者のような哲学詩人で、歴代の有名登山家のなかには、青年時代にニーチェの影響を受けた人々がかなりいたのではないか。
若き日の槙有恒なども、その一人ではなかったかと推測する。
『山行』の文体にみられる荘重と孤独は、ニーチェの影響を受けた名文なのではないか。
もし槙が立山松尾峠の遭難で板倉勝宣とともに逝っていたと仮定すれば、偉大なる苦痛登山の旗手となったことであろう。
彼は生き延び、長命であったので、周囲の小人によって権威の座に祭りあげられ、その結果、あとからくる苦痛派の若者から反感を持たれることにもなった。
その点では、穂高岳北尾根に逝った大島亮吉は槙の対極にいる。
若くして山に逝った大島は、いまだに若者の支持を受けている。
槍ヶ岳の北鎌尾根で自ら仲間とともに死を選んだ松濤明などは、いまもって苦痛派のチャンピオンであろう。
晩年、享楽登山家として有名になった今西錦司にしても、青春時代には螢病にとらえられることがよくあったと、同窓の桑H武夫が書いていた。
青年時代の今西は、おそらく苦痛派であったにちがいない。
こう考えてくると、たいていの登山家は、それぞれが登山活動を始めた初期には苦痛を求めて山へ登り始めた形跡がある。
青春期の登山にはあえて苦行を求める傾向が誰しもあるようだが、もちろん、繰り返しいうように、快感を呼ぶための作戦で、苦痛は快感と同居することによって登山家の精神に均衡をもたらしていると私は思う。
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